津田浦大決戦 古狸奇談

津田浦大決戦 古狸奇談 第九回

さてこの時、庚申の新八も、この茶店の老狸(おやじ)が…

さてこの時、庚申の新八も、この茶店の老狸(おやじ)が先年助けました
八幡(はちまん)の森に棲む権右衛門(ごんえもん)とは夢にも知れません。

 

意外なところで不思議の対面、しかし新八は大きに悦びました。

新八「何より老狸(とっ)さん、お前は達者で結構。
それぢゃァちょっと尋ねるがな、あの時お前がつれていたお前の娘はどうしたな。」

老狸「ハイハイ、エー千鳥(ちどり)でございますか、
彼女(あれ)はただ今奉公いたしております。
実に娘も毎々(まいまい)旦那様のことをお噂(うわさ)申しておりますのでございます。
あの時の御恩報じをいたしたい、どうぞ一遍お礼にあがりたいと、
旦夕(あけくれ)父子(おやこ)の者は心得ておりますして、
貴方様におきましては斯様(かよう)なお姿をあそばして、
何処(いずれ)へお越しにあいなるのでございますか。」

新八「おれか、おれは少々用があって穴観音の方へ行くのだが、
やはり何から老狸(とっ)さん、ここも六右衛門の領分地になっておるのか。」

権右「左様でございます。すべてこの辺は六右衛門様の御領分地でございます。
ちょうど娘も昨年の秋の頃おいから、無理に奉公に取られましたのでございます。」

新八「ナニッ無理に奉公に取られた、ハテナそれはどういう事情(わけ)だ。」

権右「ハイ、お話申すも老狸(としより)の要らぬ愚痴かは知りませんが、
私は決して忘れはいたしません、昨年の秋のことでございました。
穴観音の殿様がこの辺の御領地を御巡見というのでございまして、
にわかにお触れが廻りましたので、
在下(ところ)の者は皆その道筋に出張りまして、その行列を拝むというような騒ぎ、
ところがこの向こうの境内でチョッとお小休みということにあいなったのでございます。
六右衛門様がこれまでお進みにあいなりましたところが、
どうやらにわかのご病気というので、それが腹痛でございますから、
穴観音の城内へお帰館(かえり)という訳にもまいりませず、
それゆえ当所にお泊まりということになりました。
ところがこの八幡の森に棲息(すまい)する由兵衛(よしべえ)狸の家は広うもございますが、
あいにくその日は由兵衛は病気でございまして棲所(すみか)も余程取り乱しております。
ちょっとこの辺で適当なお宿を申し上げますところもないのでございます。
それゆえ私の所へお宿泊(とまり)なさるということを申してまいりました。
私も一時は驚きましたが、
何分(なにぶん)このようなむさ苦しいところでございますが、お厭(いと)いなくばお泊まりくださいませと、
そこで一夜のお宿をいたすことになりました。
お側の御家来衆におきましては、よんどころなくこの辺に野宿をあそばすというようなことで、
イヤモウそれがために村では大騒ぎをいたしました。
娘はその時殿様のお側へお茶の給仕に差し出しましたのでございます。
ところが殿様は千鳥をご覧あそばして、余程思し召しに適(かな)いましたものでございますか、
どうぞこの娘を明日から穴観音の城内へ奉公に差し出すように、との仰せでございます。
娘のためには出世かは存じませんが、私もこの所で長らく親一人子一人で暮らしてきたのでございます。
ゆくゆくは娘に然るべき養子をもらって、初孫の顔を見て老いを養おうと楽しんでおりましたのでございます。
家内は先年死亡(なくな)りまして、ただ娘一匹を頼りとしております。
それでございますから、その娘をご奉公に差し上げましては、宿にはこの老爺(おやぢ)ばかりとなりますから、
マア殿様へそれとはなく色々とお断りを申したのでございますが、
なかなか殿様はお聴許(ききいれ)がない。
不承知を申し上げますと私共はこの地に棲息(すまい)をすることができません。
この年輩(とし)になりまして、この棲所(すまい)を取り上げられるようなことになっては
実に路頭に迷うようなことでございますから、
よんどころなく泣きの涙で娘と別れまして、
ついに千鳥は穴観音の城内へは奉公に差し出すということにあいなりましたのでございます。
ところが御城内におきましては、余程殿様は御意(ぎょい)に適(かな)いましたものと見えまして、
千鳥を御寵愛あそばして、なかなか急にお下げもございません。
然(しか)るに六右衛門様の奥方というのは楓(かえで)の前さまと仰せられまして、
何でもこれは淡路の方からお輿入(こしいれ)にあいなっておるということでございます。
これがなかなか嫉妬深いのでございまして、
娘は折々殿様へ向けましてお暇(いとま)を願いまするといえども、なかなか殿様はお許しはございません。
それゆえ娘はお部屋同様の身分とはいえど、実に奥方に気兼ねをいたしまして、
辛い思いで奉公いたしておるのでございます。
よってどうぞいたして、その娘を帰していただく訳にはならぬものかと、一日として思わぬことはございません。
かえって結構な身の上が私の身にとって見ますと誠に辛い思いをいたしますのでございます。
何楽しみに日々この処(ところ)で茶店を出しておりますが、
ホンの私の今日(こんにち)食うだけのことをいたしておるのでございます。
御推量あそばしてくださいますよう。」

と水鼻汁(みずばな)を垂らしながら老(おい)の愚痴をこぼして物語りました。

茶店の※床机(しょうぎ)の端に腰うち掛けて、一口飲みながら聞いておりました庚申の新八は

「ムムゥそれぢゃァ老狸(とっ)さん何かえ。
六右衛門はいい年輩(とし)をしやァがって、お前の娘を無理に妾(めかけ)に上げさした、
やっぱり今でもお前方を捉えて苦しめるのか。
考えてみれば重々不埒の奴だ。ハテどうしたらよかろう。」

としばらく考えておりましたが、たちまち何か思い出しましたか

新八「ナア老狸(とっ)さん、おれはお前に折り入って頼みたいことがあるが、
どうぢゃ、おれの頼みをきいてくれぬか。」

権右「ヘエヘエ、イヤモウ大恩をこうむりました旦那様のことでございますから、
我々の身に叶いましたことなら何なりと承りますが、
しかしモウ夜の明け方に間もございません。
また夜が明けましたら一日は穴の中に引っ込んでおります。
どうぞ明日は一日私の許(もと)にゆるゆるお泊りあそばして下さいますよう願います。」

新八「左様か、それぢゃァ言葉に甘えるようであるが、
老狸(とっ)さん、お前の棲居(すみか)へ行って一日厄介になろう。
その上、何彼(なにか)の話はゆるゆるしよう。
アァ気の弛(ゆる)みか、おれは大変眠くなってきた。」

そのまま※床机(しょうぎ)の端にコロリと横になって手枕をする容子でございますから

権右「アァモウン旦那様、モウ店もそろそろ片付ける時分でございます。
幸いあの奥の一室(ま)、あれへお這入(はい)りあそばして、しばらくお休みにあいなりますよう。」

新八「左様か、それぢゃァそうさしてもらおう。」

と、そこで新八は草鞋(わらじ)を脱ぎ捨てまして、
茶店の奥にちょっとした室(ま)がありますから、それへ参って横になりました。

こちらは権右衛門の老狸(おやじ)でございます。
モウ払暁(あけがた)に間もない、客も大抵これまでと思いまして、
そこらを取り片付けておりますところへ、
津田の浜手の方から足拵(あしごしら)えも厳重に三度飛脚というふうやな風体でございまして、
一つの状箱(じょうばこ)を己れが刀の先に結び付けまして、
ドシドシ其処(それ)へ駆けつけてまいりまする一匹の狸、
いま権右衛門(ごんえもん)老狸(おやじ)の茶店の前まで来ると

○「オイ老狸(とっ)さんや、宅(うち)にいるかな。
ヤレヤレ、疲労(くたぶれ)た、くたぶれた。」

言いながらも茶店の※床机の端(はな)に腰うち掛けました。

権右衛門はこれを眺めまして

権右「これはこれは、貴方は飛田(とんだ)の八蔵(はちぞう)様でございますか。
何処(どちら)へお出でになりましたのでございます。」

八蔵「おれか、おれはチョッと御主君のお使いで淡路まで飛んで行って、
ようよう今し方船が着いて津田の浜から駆けつけ、これから穴観音へ帰ろうというところだが、
老狸(とっ)さん何ぞ食う物はないかえ」

権右「左様でございます。
別段にこれといってございませんが、
下物(さかな)には蛸の足と、いつもの油揚鮓(あぶらげずし)に餡餅(あんころ)というようなものでございます。」

八蔵「ヤッそれは結構結構、ことごとくおいらが好物ばかりだ。
それぢゃァ油揚鮓を少し出してくれ。そして一本燗(つ)けてもらいたい。」

権右「承知いたしましてございます。
明け方に間もないと思い、今店を閉(しま)おうと心得ておりましたのでございます。
それでは差し上げますでございます。しばらくお待ちあそばしてくださいますよう。」

と、ようようあり合わせの油揚鮓、それを皿に盛りまして、酒を一本添えて差し出しました。

こちらは※床机の端(はな)にて飛田の八蔵、手酌でグイグイ飲み始めました。

八蔵「アアどうも結構だな。アアうまいうまい。
何よりもってこの油揚鮓はおれの好物だ。
モウ老狸(とっ)さん店を閉(しま)うのかえ。」

権右「ハイモウ程なり片付けて立ち帰ろうと心得ておりますのでございます。
どうぞ貴方すみませんけれども、お早くあそばしてくださいますよう。」

八蔵「マアいいや、もう一本燗(つ)けてくれ、よっぽど腹がへっているから。
アアうまいうまい。」

権右「時に八蔵さん、ちょっと貴方にお尋ね申します。」

八蔵「何んぢゃ。」

権右「エー、この間から根っから存じませんでございましたが、
この辺に大変な戦争(いくさ)がございましたそうで、
モウあの戦争(いくさ)は終(しま)いでございますか。」

八蔵「なかなかもって、終局(しまい)というところへは行かんのだ。
今尚(いまだ)に敵将の金長という奴は、あの津田山の元御主君の家来であった鹿の子の陣所に備えを立っていて、
おまけにおらが御主君の居城をつけ狙っていやァがる。
生意気な奴もあればあるもので、今に彼奴等(やつら)にきっと泣き面をかかしてやるんだ。」

権右「左様でございますか。それでは戦争(いくさ)はまだあるのでございますか。
アァアァそれは困ったことでございますな。
イヤモウ私のような老狸(おやじ)は何処(どこ)ぞへ立ち退かんければなりますまい。」

八蔵「イヤイヤそれは大丈夫だ。心配しなさるな。
殊にお前の娘の千鳥さんは、殿様の御意に叶って今ではお部屋様という結構な身の上だ。
お前は現在その親ぢゃァないか。
だから万一危険(あぶな)いということになったら、早速御城内へ引き入れて下さる。
しかし今度はそんなことをしないでも大丈夫だ。
おれのこの度の使いと使いというのは、淡路の千山の芝右衛門の方へわざわざ早足でやって行き、
御加勢をお願い申したんだ。
何がさて金長という奴は大変狸仲間では評判(うけ)のいい奴で、
南方の奴等は多く味方をしやァがったから、
小勢といえど時々に可怪(おか)しな計略を用いやァがる。
それだによって今度は芝右衛門様をお願い申して一時に挟み撃ちにしてやろうという計略なんだ。」

権右「ヘエー芝右衛門様というのは、そんなにまた戦争(いくさ)はお上手なお方でございますか。」

八蔵「知れたことをいえ、
その芝右衛門という方は今淡路を領分としていらっしゃって、殊に今の殿様の奥方のお兄様だ、
それだによって縁辺(えんぺん)の続きをもってお願い申したところが、
それではおれはすぐさま眷族(けんぞく)共を連れて加勢に行ってやるということになった。
この淡路の手合はよっぽど沢山ある、
それを一団(ひとつ)にまとめて彼(か)の津田の浜辺へ対して今に押し寄せて来る。
するとすぐにその同勢は津田山の鹿の子の家内小鹿の子(こがのこ)といえる奴が金長を案内して其処(そこ)に立て籠もっている、
その日開野方に対して千山の芝右衛門様がうち向かい、
戦争(たたかい)という最中に穴観音の城内より同勢が繰り出して双方から挟み撃ちだ。
そうなると味方の同勢は沢山、敵手(あいて)は多寡の知れたる小勢、
十分彼を挟み撃ちにして討ち取ろうという、しかもその御返事をいただきにきたのだ。
御大将にお目にかけたら、さぞかしお悦びなさるであろう。
なんと巧(うま)い計略ではないか。」

と酒の言わせる自慢の話、おのずと声が高くなりましたやつを
一室(ま)のうちで横になってウツウツしておりました庚申の新八は、
ふとこれを聞き

「ハテナ、さては彼奴(あやつ)は穴観音の城内より千山の芝右衛門のもとへ参った使いの飛脚であるか。」

となおも容子を窺(うかご)うておるうちに、
何も知らぬ権右衛門老狸は

権右「マアマアそれは何より結構でございます。
私などは根が百姓のことでございますから、戦争(いくさ)のことはすこしも存じません。
どっちでも宜しい早く勝負がつきまして、終局(おさま)るのを待っておりまするのでございます。
どうぞ八蔵さん、貴方御城内へお帰りになりましたら、
娘の千鳥に老父(おやじ)は非常に心配をしているということを御伝言の程を願います。」

八蔵「よしよし、おれがすぐにこれから城内へ帰ったらそのことを言っておこう。
しかしモウ一本燗(つ)けてくれねえか。大変にうまい。」

権右「モウ店を閉(しま)いましょうと思いますので。」

八蔵「マアいい、そんなことをいわんと、これで疲労(くたぶれ)が休まるのだ。」

とまた一本燗(つ)けさせて手酌で飲み始めました。

老狸(おやじ)は裏手へ出まして片付(しまい)ごとをいたしております。

ところが八蔵は酒の酔いがまわってくると好(よ)い心持ちで眠くなってきた、
夜の引明け前、そのまま居眠りを始めだしましたが、
いつの程にかバッタリそのところへ盃(さかずき)を落として
コロリと床机の上に横になりまして、たちまちグウグウいびきをかき寝込んでしまう容子でございます。

この体(てい)を一室(ま)のうちから眺めた新八は、
いまこの暇にソッと出でました。

彼(か)の八蔵といえる奴が側に置いたる刀の先にくくってある状箱(じょうばこ)を取り、
手疾(てばや)く紐を解いて中より取りだした一通は、
これぞ千山芝右衛門が六右衛門のもとへ送る返書(てがみ)でございますから、
ニッコリ微笑(わらっ)て懐中いたした。

何か代わりの物をと思いましたが、手紙を書いている暇はない、
そこで庭に脱ぎすててございます草履の片足を取り上げまして、
状箱の裡(うち)に入れ、以前(もと)の通りに刀の先にくくりつけまして、
ソッとその場を立ち去ってしまったことは、
八蔵は夢にも知らずグウグウ高鼾(たかいびき)で寝ておりまする。

そのうちに庚申の新八は奥の一室(ま)に這入(はい)って、
どうなるであろうと容子を窺(うかご)うておりますると、
老狸(おやじ)はようよう店へ出て参りました。

権右「アアコレ飛田の八蔵さん、貴方そんなところへ寝られては困るぢゃございませんか。
今に夜が明けますから店を閉(しま)わんければなりません。
起きてください、モシ八蔵さん。」

八蔵「アマアー恐ろしい好(い)い心持ちだった、
なんだ夜が明ける、オヤオヤそれは大変だ、
人間が往来をすれば、とんでもねえところで見つけられて酷い目に遭わされる。
殊にこの辺は犬が多いからね。
ぢゃァボチボチとこれから帰ろう。
サア老狸(とっ)さん、これをどうぞ取っておいてくんな。」

と懐中から手当たりの金子(きんす)を取り出しまして権右衛門の前へ投げ出しました。

権右「ヤッ、こんなにいただきましてはおつりを沢山差し上げんければなりません。」

八蔵「ヤッ預けておこう、また次に来る時に差し引いてもらうよ。
それぜやァ老狸(とっ)さんお邪魔しました、さようなら。」

権右「ありがとうございます。お静かにいらっしゃい。」

飛田の八蔵という頓狂者(とんきょうもの)は肝心の御用状をすりかえられたとは夢にも知らず、
そいつを引っ担ぎ穴観音の方を望んでドシドシ駈けだしてしまいました。

権右「ヤレヤレ、いつも尻の長い男だ。
今日は夜明けと聞いて驚いてあわてて帰ってしまった。」

と独り言をいいながら其辺(そこら)を片付けましたが、奥の一室を覗き、

権右「旦那様、貴方先刻(さきほど)から寝(やす)んでいらっしゃったか。」

新八「アァ老狸(とっ)さん、好い心持ちで一寝入りやってのけた。
モウ夜明けに間もないな。

権右「ハイ、どうぞ私と一緒にお出でくださいますよう。」

新八「そうか、それぢゃァ老狸(とっ)さん、言葉に甘えて厄介になろう。」

と戸外(おもて)へ出まする。

こちらは権右衛門、茶店を片付け葭簀(よしず)を立てまわしまして、
彼(か)の庚申の新八と共に己が棲家(すみか)といたしまする穴の中へ伴いました。

その中にたちまち撞(つ)き出す明けの鐘。

ようよう夜が明け渡りまする穴の内にあって、新八は何事か相談をいたしましたが、
全くこの老狸(おやじ)に頼み込んだるものと見えます。

よってその翌日でございました。

この権右衛門という老狸(おやじ)から、穴観音にありまする娘の千鳥の方へ書面を送りました。

これが千鳥の手にはいりますと、
父がこの度急病だからお前どうぞして、主人様(とのさま)に一日お暇をいただいて戻って来てくれ
と、いうのであります。

全くのことであると思いまして、千鳥は大きに驚き、そこで六右衛門に向かい

「父のもとから斯様斯様(かようかよう)申してまいりました。
どうぞ一日だけお暇を願いとうございます。」

とようよう頼んで、六右衛門の館を出まして、一匹の腰元(こしもと)を伴い、周章狼狽(あわてふためい)て帰ろうとする、
充分六右衛門は千鳥が気に入っているのでありますから

六右「千鳥、それでは早く帰って参れよ。」

千鳥「ハイ」

六右「モシ権右衛門の病気が長引く様な事であれば、老父(おやじ)を当城内へつれて来い。
我が手許に置いて充分手当をいたしてやるぞ。」

千鳥「ありがとうございます。」

六右「小遣金(こづかい)があるか。」

千鳥「ハイ」

六右「これを持って行け。
何か入り用もあろうから、余ったら老父(おやじ)に遣わして帰れ。
また老父(おやじ)にそういえ、何か不自由な物があったら何時でも手当をいたして遣わすぞ。
それからこれは門も※鑑札(かんさつ)だ。
この節、門の出入りはなかなか厳しいことである。
よって出るにも入るにも、これを門のかかりのものに見せて出入りをせんければならぬ。」

千鳥「ありがとうございます。」

そこで千鳥は腰元一匹を伴いまして穴観音の城内を出で、
かの八幡の森へ立ち帰ってまいりました。

さて城内におきましても六右衛門はようようその場を出でまして、
これから表の広間へ参って、その身は一段高いところに座を占め、
側には数多(あまた)の近習の小狸共を従え、四方山(よもやま)の話をいたしておりまする。

ところへ一匹の小狸でございます。
次の間に両手をつかえ

小狸「恐れながら申し上げます。
今朝かの淡路の方へ使いに参りました、飛田の八蔵立ち帰りましてございます。
主公(きみ)のお目通りを願うておりましたが、
まだ主公(きみ)は御寝所でお休みのことでございましたから、
次の間に控えさせておきましたが、いかが取りはからいましょう。」

六右「ムムウ左様か。さては飛田が帰ってくれたか。
何分(なにぶん)この方は酩酊をいたして千鳥の部屋で前後も知らずうち臥(ふ)したることである。
そのことは一向気がつかなかった。
しかし飛田の八蔵が帰ったとあれば、早々目通りまで呼べ。」

小狸「かしこまりました。」

と小狸は下がる。
程なくそれへ向けましてやって参ったのは飛田の八蔵

「ハッ御前(ごぜん)ただ今立ち帰りました、飛田の八蔵にございます。」

六右「オオそれはそれは八蔵
この度我が用向きによって千山の芝右衛門のもとへ参ってくれて大儀である。
して芝右衛門は何と申した。」

八蔵「御意にござります。
立ち帰りまするなり、すぐ申し上げようと思いましたが、
何分(なにぶん)御酩酊の御容子、殊にお楽しみ最中に…」

六右「コリャコリャ何ということを申す。」

小狸「何分(なにぶん)お退(ひ)けにあいなったのですから、
次の間に在って控えておりましたのでございます。
さて早速申し上げます。
私は津田浦の浜より、いい塩梅に淡路通いの船がありましたから、それへ飛び乗りまして
船が彼(か)の地へ着きますと、すぐさま千山へ赴きました。
芝右衛門様のお目通りをいたし、
主公(きみ)のお手紙なり且つはお伝言(ことづけ)の程を
たしかに申し入れましてございます。
しかるに芝右衛門殿は非常にお驚きになりました。
かねて日開野金長なる奴は謀反の旗揚げをいたすということは聞き及んでおるが、
よもや、これ程ではあるまいと心得た、
さぞ六右衛門公は残念であろう。
しかしこの頃太平うち続き、眷族共は手許に居らん。
あるいは変化の修行、または遊山見物(ゆさんけんぶつ)といたして、
あちらこちらへ参っておるのであるから、
至急にこれらの輩(てあい)を集めてその地へ渡ろうとするには早くも四、五日費やさねばならぬ
という仰せでございます。
しかしともかくも拙者(それがし)が一両日先に穴観音へ参り、
その上六右衛門公に面会をいたし、何かの打ち合わせを致すことである、
汝(なんじ)立ち帰ったら左様に申し上げよ、
とのことでございまして、この書面を持って参れとの仰せでございます。
御主公(ごしゅくん)これをご覧の程を願います。
芝右衛門様より直々ににいただきましたのでございます。」

六右「オオそれは」大きに大儀であった。
それで何か外(ほか)に何事も話はなかったか。

八蔵「左様でございます。別段何事も仰せられませんでした。」

六右衛門は文箱(ふばこ)の紐を解き、蓋を開けて中を見ると驚いた。

六右「これは何ぢゃァ、返事と思いの外片足(かたし)の草履斯(ふるぞうり)、
斯様(かよう)な草履が返事とは何事だ。」

八蔵「ハッハッ…オヤこれはしたり、怪(け)しからぬ事もある物でございます。」

六右「ハハア汝(なんじ)大切なる密書を途中において誰かに奪われ、
斯様(かよう)な物とすりかえられたのぢゃな。」

八蔵「滅相(めっそう)な、
なかなか以(も)ちまして、私大切なる御書でございますから、
取り換えられる様なことは決していたしません。
どうもこれは面妖な、草履で狐の子ぢゃものを、イヤ狸の…」

六右「コリャ控えろ、甚だもって不埒(ふらち)な奴。
これへ参れ、手討ちに及んでくれる。」

八蔵「メ、メ、滅相な、マ、、お待ちくださいまするよう、
私はなかなか以(も)ちまして道中で奪われるという様なことはございませんが、
これはキッとお味方をなさるという、その謎でございましょう。」

六右「なに味方をするという謎だ、何がためにそれは謎ぢゃ。」

八蔵「左様でございます。
昔、彼(か)の信田(しのだ)の森というところがございまして、
その森は葛葉(くずのは)と申しまする狐が、縁あって阿倍安名(あべのやすな)という者と夫婦になりました。
それが自分の姿が露見いたしまして、元の古巣へ帰りまする時、
葛葉は我が子に別れを告げましてございます。
たとえ親子の縁は切れるとも、必ず其方(そなた)の影身に付き添うてやるから、
其方も温順(おとなし)く成人してくれと
子供の寝ておりまする枕もとにおいて、何をさしても埒(らち)明かん、
草履で狐の子ぢゃものをと、人に笑われ指差され…」

六右「何をつまらぬ事を吐(ぬか)しておる。」

八蔵「イエそれと同じことでございます。
千山芝右衛門様は奥方楓が前様(まえさま)の兄様のことでございますから、
その縁に引かされていらっしゃいます。
草履で狸の兄ぢゃもの…、」

六右「コリャ何をいう、馬鹿なことを申すな不埒者め、目通り叶わぬ、下がれ。」

八蔵「ヘエー御免下さいまし。」

と飛田の八蔵頭を抱えて次へ逃げ込んでしまいました。

後に六右衛門は考えました。

如何(いか)にも不思議、飛田の八蔵めが、
さては途中においてこれは敵方の奴等に密書を奪われたることではないか。
もしや然(さ)ある時には我が計略も※画餅(がぺい)とあいなることである。
何は然(しか)れ、明後日芝右衛門殿がお出でにあいなるというのは幸い、
何かの事は面談の上、万事打ち合わせいたそう。
コリャ明後日、千山芝右衛門がお乗り込みである。
饗応(もてなし)に及ばんければあいならぬぞ。
いずれも前もってその用意をいたしておき、また奥楓の前にもそのことを申しておけ。」

そこでこのことをば楓の前にも知らせましたることでございます。

よっていずれもその準備をいたしてあい待つところへ、
千山芝右衛門わざわざ淡路から出かけて参り、すぐに穴観音へ参りましたら、
首尾よくその打ち合わせも出来たのでありますが、
一旦淡路の汝(おのれ)の棲家(すみか)を出立いたし、この地へ乗り込んでまいって、
わずかな手違いより、この千山の芝右衛門というものは、
彼(か)の御城下の傍(わき)なる勢見山(せいみやま)の麓(ふもと)観音堂の片辺(かたほと)りにおきまして、
ついに己の一命を落とさんければあいならぬということに立ち至るお話、
チョッと一息。

※床机(しょうぎ)…茶店の店先などに出す縁台。
※鑑札(かんさつ)…ある種の行為に許可を与えたことを証するために交付する証票。
※画餅(がぺい)…絵に描いた餅。実際の役に立たないもののたとえ。

津田浦大決戦 古狸奇談 第十回へ続く

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